独り言

2008年7月26日 (土)

一緒に歩いてる死というもの ~二つの死を経て考える~

たまに書く独り言 第11回

ふだん普通に、または一般的に生活を送っている人々にとって、死とは、あまり身近でない、または頻繁に考えることではないと思われる。

それは幸せなことだ。

会に集まる人にとって、個人差があるけど死を身近に抱え込んでいる人が多い。

今、人は地球上にあふれ、毎日どこかで人は死んでいく。

ありふれた言い方だが、マスメディアを通じて得た死という情報(口頭でも自分の身近でない場合)は、自分の中で死を本当の意味で考えるまではいかない、または理屈では解っていても、どこか対岸の火事的なところがあって真剣に考えるまでには、至らない人が大多数だろう。

自分の身近な人に死が訪れた時、初めて死の本当の悲しさを知ったなんて人も多数いることでしょう。

そんな死というものを、自分に対して考える、または行使するということは、辛く悲しいことだ。

自分の命だから自分のすきにしていい、なんて事を言う人もいる。

それは、ある意味正論であるし、考え方を否定はしないが、その自分の命は自分だけで生まれてきたものでもないし、自分の力だけで維持しているものでもない。

自分ひとりだけで生きているのではない、まわりから生かされているのだ。

自分の命とは、まわりの人たちに対しても責任があるのではないか?

その人は、孤独を感じていた、友達少ないといっていた。

でも葬儀では、その人のために泣いてくれる人がたくさんいた。

自分の命とはいえ、他のたくさんの人を悲しませる権利はないと思った。

人は生かされている、まわりにたくさん自分の事を気にかけている人がいる、そう感じない人は気づけていないだけなのだ。

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2008年4月23日 (水)

会のめざすトコロ

たまに書く独り言 第10回

いまさら会のめざす所を書くというのも変ですが。

当会の主旨や私が思う所の目的は、すでに決まっていると思う。

当会はNPO法人の中にある、いちサークル?にすぎない。

なので、そのNPO法人の不登校・ひきこもり・ニート部門の活動・対応が本質的には、めざす所なのである。

(私が思う所の目的=NPOの考え、では必ずしもないが)

そんな中でも、より良い会にしようと努めるのが私達の役割だろう。

そういうわけで最近思った2点ついて考えてみたいと思う。

1.社会性はあるか

ある記事に書いてあった事だが、ニートの人が社会に参加し自立するために最も必要なのは「社会性」らしい。

そこには他者とのかかわりや心遣い、一般常識なども含む。

しかしこれは、本人が社会や他者と実際にかかわることでしか見につかない。

これを読んだ時に当会の役割として「社会性」を鍛えることというのがあるんじゃないかと、思ったわけです。

とりあえず会が存在するだけでも、ここで言う社会性は含まれそうですが、デクノボウでは寂しいので、より上を目指すのはいい事ではないのか?

とりあえず一つの目指す所だよね。

2.雰囲気が暗い?

会の雰囲気が暗いのではないか?

と指摘をうけて考えた。

そもそも明るくなければ、いけないものなんだろうか?

会を利用する人は、なにかしら心に陰を持っているわけで。

明るくなる方が不自然な気がするのです。

そして、その明るさというものは、目的に必ずしも必要不可欠なものだとは思わないのです。

もちろん明るくてもいいと思うし、明るいのも一つの形だと思うけど、暗い形もあってもいいんじゃないのかと思う。

でもね、明るさを保つには労力がいると思うのです。

その労力を誰が担うのだという所まで考えなければならないのでは?

(けして明るさを否定しているわけじゃなくて必要かという視点で考えて欲しい)

日々新たな考えを吸収し進化していきたい、そう思う。

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2008年2月13日 (水)

自分の考えをつらぬく事の大切さ つらぬかない事の大切さ

たまに書く独り言 第9回

物事を行うことは、自分の考えと他者の考えとの違いが大きな障害のひとつであると思う。

(自分ひとり単独で作業するのは別だが)

おもに独り言では自分の会に対する考え方などを書いてきたので、ここから先は会のことについて書いている。(物事というと漠然としすぎてるので絞る)

人間とは幸か不幸か1人として同じ人間はいない。

当然、考え方も細部まで、まったく同じ人は存在しない。

複数の人で会などを作り活動をする。

当然集まって来る人は会の主旨に賛同し、何かしら自分の目的があるから来るのだろう。

しかし、考え方は人それぞれ、参加者全員がまったく同じ考えを共有しているはずはない。

ということは万人に受け入れられる会などというものは存在しないことになる。

だからといって、努力をしなくていい事にはならないけど。

意見があるなら、ぶつけてみる(ぶつけなくても話してみる)

そしてお互い考えて、会としてより良い答えを導き出す。

(努力した結果どうしても合わないなら別の場所を探すのもありだと思うけど)

そういった作業を経ないで自分の結論に先走るのは、会にとっても本人にとっても不幸だろう。

おそらく本質的に考えると、他者と係わって同じ場所を形成するということは、ある意味で妥協しあっている状態なのかもしれない。

(その妥協が負担では意味が無いけど)

複数の人が集まるというのは、考え方だけとってみても複雑だ。

結局、自分たちに提示できるモノを見せて、コレに合う人は来て下さい、合わない人は他を探してください、というしかないのだろうか?

なんか、これでは温かみが無いというか、自己中というか、寂しい気持ちになるのは私だけでしょうか。

自分の考えに固執しない包括的な真理があるんじゃないか?

きっと自分が寂しいだけなのかもしれないけど。

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2007年12月19日 (水)

複数の場所で自分のテリトリーを形成する

たまに書く独り言 第8回

このタイトルが言いたいことを的確に表しているかは?だが進める。

ようするに、ひらたく言えば複数のことをやろうよ!

ということだ。

今現在悩んでいる、または生きづらさを感じている人などなど

ひとつの場所で悩んでいませんか?

言い方を変えると「複数の場所で生きていますか」

さらに言うと「仕事(学校)と家庭以外になにかしてますか」

ひとつの世界でしか生きていない場合または、ひとつの世界だけに依存している場合。

その世界でトラブルやなにか困難な事が起こった場合、非常に悩むだろう。

解決が出来ない時もあるかもしれない。

そんな時に他の場所がある、自分の存在する場所があるということは、自分の力になるだろう。

また、他の場所が支えになっていれば心理的余裕もうまれるし、トラブルにもより客観的に対処できるだろう。

趣味的なことでもいい、何かの会でもいい、仕事でもいいかもしれない、なにかひとつの事だけに、とらわれるのではなく、なにか別のことをやっていると精神的保険の意味あいもあると思うのです。

悩んでいる時は、たいてい思考が狭くなっているものだ。

外には大海が広がっているというのに。

生きづらさを感じる人、なにか新しいこと始めてみませんか?

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2007年8月26日 (日)

ごめんね…

たまに書く独り言 番外編

今日は、なんだかチョット凹んでいる。

なので最初で最後にするが、自らに課しているこのブログのルールを破る。

このブログは基本ゲーム、たまに独り言(主に会の考え方や他者に向けての助言だが)だけで構成されている。

今回はカテゴリは独り言だが、みんなへの、オフラインへのメッセージだ。

最近は、わりと上手くまわっている。

心境も平坦、わりと活動的だ。

でも自業自得で道を外れようとするのはナゼだ。

それはきっと私も人間だからだ。

欲や利己主義の塊だ。

なぜもっと、やさしい言葉で満たせないないのだろう

なぜもっと、相手の気持ちにたって考えられないのだろう

なぜもっと、スマートかつ紳士的に接せないのだろう

頭では理解していても実行とはほど遠い。

そして帰って自己嫌悪だ。

私はジレンマの中で生きている。

悩みは、たいてい対人が原因であり、または遠因だ。

人間の性質上仕方ないのかもしれない。

でもできれば悩みたくないものですね。

最近のことでいうと

十年来の人と袂を分かった時もそう

天然の人をなかせた時もそう

私のせいで不愉快な思いをした人

その他、未熟がゆえに不快な思いをした人に

「ごめんね」

と伝えたい。

でもね

根底には、みんなのことが好きだという思いがあると思うんだ。

また好きだから、わかって欲しいという気持ちがあると思うんだ。

近・遠、今・昔にかかわらず、みんながいてくれるから、みんなからパワーをもらえるから、立っていられるのです。

最後まで読んでくれてありがとう。

これはオフへのメッセージと自分への心の整理です。

最近の名言:取っ手取って

最近の語感:エシャレット、ラディッシュ

今日印象に残ったこと:典型的なO型だよね?

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2007年8月24日 (金)

遠回りのすすめ

たまに書く独り言 第7

昨今は、やたらと成功・迅速・効率的・正解などを求める傾向にあると思う。

さらには近道やショートカットをするのはいい事だと思っている人も多いようだ。

スムーズに正解とされる(社会的に)道を歩く。

成功することが美徳とされる。

それはいい事だろうか?

成功からは多少の満足感と多大な慢心しか生まないというのに。

人生は大きな山を登ることに似ている。

その山を登るのには人それぞれ登り方があるだろう。

速く登る人もいれば、ゆっくり登る人もいる、近道をする人もいれば、遠回りをする人もいる、三合目や五合目でチョット休憩をとる人もいるかもしれない。

近道をすることが、必ずしも悪いことだとは言わないが、チョット異なった道を進むことで、また違った景色が見えるかもしれない。(個人的には違った景色が見たいのだ)

速く山の頂上に着くのは気持ちいいかもしれない。

でも人によって山の高さが違うかもしれない、それに、そこは本当に頂上なのだろうか?

頂上だとしても、たどり着いたのはいいが、すぐに落っこちるかもしれない。

私はゆっくり登ることを勧めたい。

一歩ずつ進めばいい、途中で休んでもいい、遠回りしてもいい、登るのに飽きたら下ってもいい、それでたどり着く所が一緒なら同じことではないか。

また、たどり着けなくても、別にいいんじゃない

焦るなみんな!

人生は長い、社会に出てから失敗して学べ。

急がば回れだ。

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2007年8月15日 (水)

失恋をしよう

たまに書く独り言 第6回

初恋がそのまま成就すれば、そんな幸せなことはない。

失恋をしなくてすむから。

と言ったのは誰だったか?

たしかに一理あると思う。

しかし、どうだろう、私も失恋は嫌だしできればしたくない。(失恋は心が痛いね~)

けど失恋からしか学べないことがたくさんある気がする。

一つの恋が終わり、また別の誰かと恋に落ちる。

前の経験を活かせるかもしれない、別の人とコミュニケーションをとり人間的に成長できるかもしれない、次の相手のほうがシックリするなんてこともあるかもしれない。

など考えてみると、初恋を最初で最後の恋にするのは、もったいない気がする。

(初恋の人が運命の人という場合もあるから全否定はしないが)

最近は10代や20代の人と立場上会うことも多い。

その中にも恋で悩んでる人がいることでしょう。

アドバイスできるほど偉くはありませんが、一言。

※恋したい君へ

まずは、行動してみることです。

チャンスの神様の髪は短く、一握りの人しかつかめないそうです。

恋愛のチャンスもまたしかり、あまり来ないかもしれないチャンスを逃さない為には、常にアクションを起こしていることです。

チャンスは降ってはきません。

※恋してる君へ

今を大事にしてください。

つき合っているなら、できれば別れずに。

つき合ってないなら、告白してつき合ってみよう。もし振られても当方では責任を持ちませんが(笑)

恋できるだけであなたは幸せです。

※恋が終わった君へ

きっとこの世の終わりみたいな気持ちでしょう。

でもきっと新しい光が射すでしょう。

明けない夜はないのです。

大好きな人と上手くいくのは、一番いいこと。

その大好きな人と別れるのは、その次にいいこと。

だそうです。

このページを見たみんなに良い風が吹きますように…

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2007年6月18日 (月)

会における主旨と募集要項の根幹とは

たまに書く独り言 第5回

前置き:今回は色眼鏡をかけているかもしれない(なるべく俯瞰視点で書きますが)

会に限ったことではないが、何かを行う時その主旨がはっきりとしていなければ、ならないと思う。

そして、その主旨は参加する人に理解してもらわなければならない。

参加している人に主旨が見えない、主催者の自己満足ではないか、などと思われては、行った意味も半減するというものである。

会を始める前に下準備として、一年ぐらいの話し合い、事例の対処法、意見のすり合わせを行った、とは某氏の話である。

ある程度、軌道に乗り、信念を持ち、会を運営している人には中途半端な会はママゴトに見えることだろう。

(そういった意味では私たちの会もまだまだ未成熟だと自覚している)

そして、その主旨から導かれて募集要項がでてくると思う。

こういう人を募集します!

というのは、それなりの理由があってしかるべきだと思う。

「どんな人でもいい」というのにもナゼだれでもいいのかという理由がなければならない。

思うのは募集をするのに、人を絞るには相応の理由があるという事。

仕事なら能力で絞られるように。

その絞り方が区別であり、差別であってはならないと思う。

募集要項が不完全だと理不尽な思いをするひとが少なからずいるだろう。

主旨や募集要項の根っこには、このようなことが隠れていると思うのです。

このような事から、他の会をやっている人からの疑問に即答できる私たちの会でありたいと思う。

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2007年6月 4日 (月)

会における自分の立ち位置(役割)

たまに書く独り言 第4回

私の会における役割とはなんだろう?

1年以上やってきたが、いまだにちゃんとした場所に立ってはいないと思う。

私がスタッフなり会長だったなら役割はもっと明確だっただろう。

しかし私は中間管理職だと思っているし、会社で言えば係長だと周りには言っている。

それは、謙遜ではないし実際、的確な発言だろう。

私は当会は参加者がみんなで作りあげていくものだと思っている。

しかし組織にはまとめ役がいたほうが効率がいいのも確かである。

はたして自分がどこまで引っ張っていいのか?イベントの提案をすることは押し付けにならないだろうか?スタッフ的視野を持ち参加者の発言、態度等々に気を配らなければいけないのだろうか?

いまだ手探り暗中模索だ。

私は参加者兼まとめ役だと思っているし、これからもしばらくはそうだろう。

個人的にはこの状態がシックリくるし、そういうまとめ役の形態もありだと思う。

(ちゃんとした人がスタッフでなければいけないというのも一理あると思うが)

これからやるべき事は、いろいろ試しながらスタッフの人と私と参加者の会における役割を探すことだ。

(当会にはスタッフが1人ついてくれている)

最近は会であることのグチばっかり喋っています、参加者の皆様嫌な思いをしていませんか?

嫌な思いをしていたら遠慮なく言って下さい。

頼り無いまとめ役ですが長い目で見てやってください。

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2007年5月21日 (月)

パワーのもらい方

たまに書く独り言 第3回

パワーのもらい方は人それぞれだ。

「パワー」この言葉の意味はいろいろだと思う。

私の場合は活動力、行動力などが一つの意味として含まれている。

なので以下、パワー=活動力・行動力ということで書くことにする。

私が自助会なりフリースペースに参加するひとつの動機としてはパワーを得ることにある。

会に参加することによってパワーを得るというのが普通だと思うし、パワーをもらうことを目的に会に参加している人もいるだろう。(あるいはパワーを得ることだけを目的に)

一行目に書いたがパワーのもらいかたは人それぞれ、私は会に参加するにつれ参加者としてよりも会の運営、まとめ役としての役割の方がパワーを得られる事に気がついた。

自分がパワーを得、他の参加者が異なる理由のパワー、異なる意味のパワーを得る。

一つの会に違うパワーがあり、それがうまく一つの会を形成することができたなら、会の形がよりしっかりしたモノになるのではないだろうか。

メンバーに感謝 みんなからパワーをもらっています、それだけでも私には意義深いことです、ありがとう。

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2007年5月 6日 (日)

共通の趣味でつながることへの不安

たまに書く独り言 第2回

共通の趣味、自助会なりフリースペースなりを利用しているまたは、これから利用したいと思っている人の趣味はわりと共通している事が多いと思われる。

自助会の目的としては、同じような境遇の人や同じ悩みを抱える人などが話しをしコミュニケーションをはかり立ち直るきっかけを得ることにあると思う。

普段はなかなか言えない話をすることで、スッキリすることもあるだろう。

他人の話を聞き、自分だけじゃないと思い、心が楽になることもあるだろう。

普段とは異質な場所で、発言をし、意見を聞く事で立ち直ることもあるだろう。

はたして、そのような場に共通の趣味でアソブというコミュニケーション手段を用いることが良いことだろうか?

共通の趣味を持った人と同じ話題、同じ趣味を行うことは楽しいだろうし、会の中でそれを行っても次回からの継続的な参加動機にもなるだろうし、たのしい空間になる事は私の望むところです。

しかし、ここで不安が生まれる。

はたして趣味でつながることを自助会なりフリースペースでやることなのか?

その共通した趣味の同好会、サークル的なものでもいいのではないのか?

私の考えとしては自助会をやるなら自助会でしかできないことをしたいというのがある。

他の会でで代用できてしまっては意味がないと思われる。

どうも極端に思考が走っている感があるので、チョット落ち着いて考えると。

会の一要素として共通の趣味でつながるというのはあってもいいと思う。

いやあった方がいいのかもしれない。

でもそれには、人数・多様な活動要素・実施日数・空気感などが不足していると思われる。

なんとか趣味でつながる事を会におりまぜていくのが今後の課題なのか?

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2007年4月22日 (日)

楽しさの必要性

たまに書く独り言 第1回

自助グループやフリースペース、フリースクールまたはそれに類するモノにとって、はたしてそこには楽しさという事が必要なのだろうか?

仮に必要だと思う人は、楽しさの割合は100%、80%、60%?

また楽しさという要素の重要性は一番、二番、三番?

こんな事を書くと私が楽しさなんて要らないと言っていると誤解されるかたもいるかもしれない。

はっきり言いますが、私はいままで会には楽しさが必要だと思ってやってきたし、楽しさが会に参加するまた継続して参加する動機になる事は十分承知しているつもりです。

ただその会の目的が社会復帰(ここで言う社会復帰とは労働によりお金を得ること自分ひとりで生活していける事を言う)を主な目的とした場合、もしかすると楽しさを一切削除または割合を下げた方がうまくいくかもしれないと考えた。

また私の会は上の偉い人たちの意向も複数あり、上の人たちが私たちの会に望んでいるのは楽しさではないんじゃないか?とも思った。

極論すれば会に参加して楽しくなくても社会復帰できたらいいやぁーという事。

もしかすると、そうしたほうがいいのか悩んだ。

サジ加減、バランスの問題もあると思う、もしかするとベストな答えは、得られないかもしれない。

だがたどり着く答えはよりベターな方がいいのではないか。

悩み、話もし、人に意見を求めた今の自分の考えとしては、楽しさは必要だがはたして楽しさだけでいいのだろうか、とりあえずは楽しさを一要素に入れるけど日々柔軟に考えを吸収し発展させていくのがいいと自戒している所です。

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