一緒に歩いてる死というもの ~二つの死を経て考える~
たまに書く独り言 第11回
ふだん普通に、または一般的に生活を送っている人々にとって、死とは、あまり身近でない、または頻繁に考えることではないと思われる。
それは幸せなことだ。
会に集まる人にとって、個人差があるけど死を身近に抱え込んでいる人が多い。
今、人は地球上にあふれ、毎日どこかで人は死んでいく。
ありふれた言い方だが、マスメディアを通じて得た死という情報(口頭でも自分の身近でない場合)は、自分の中で死を本当の意味で考えるまではいかない、または理屈では解っていても、どこか対岸の火事的なところがあって真剣に考えるまでには、至らない人が大多数だろう。
自分の身近な人に死が訪れた時、初めて死の本当の悲しさを知ったなんて人も多数いることでしょう。
そんな死というものを、自分に対して考える、または行使するということは、辛く悲しいことだ。
自分の命だから自分のすきにしていい、なんて事を言う人もいる。
それは、ある意味正論であるし、考え方を否定はしないが、その自分の命は自分だけで生まれてきたものでもないし、自分の力だけで維持しているものでもない。
自分ひとりだけで生きているのではない、まわりから生かされているのだ。
自分の命とは、まわりの人たちに対しても責任があるのではないか?
その人は、孤独を感じていた、友達少ないといっていた。
でも葬儀では、その人のために泣いてくれる人がたくさんいた。
自分の命とはいえ、他のたくさんの人を悲しませる権利はないと思った。
人は生かされている、まわりにたくさん自分の事を気にかけている人がいる、そう感じない人は気づけていないだけなのだ。
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